昭和三十九年11月4日 夜
神の用を足せば氏子の用は神が足してやる。このことは神様に利用されればとゆうのではない。神様に利用されるのと、神の御用にたつのとはちがう。お役に立ちたいお役に立ちたい一念、そうゆう一念があるところから、神様が御用に使うて下さる。
そうゆう神の御用に立たせて頂かねば神様が用を足して下さるということにはならない。神様に利用されてはつまらない。
何故ならば神様ばかり利用しよる。いうなら、私を利用しよる。私は利用されてもよい。椛目の先生はひょうたんなまずのような人じゃ。つかみどころがない。バカやら利口もんじゃらわからん。だからだまそうと思えばなんぼでもだませる。神様を利用しよう。大坪総一郎を利用しようとするようなことでは、必ず神様に利用される。
古賀先生と話したことですが、どんなに巧妙な手を使っても神様には勝てんのだ。だから信心しよる者はね、そこんところを信じねばでけん。神様には勝てんのだと思いこばねばできん。誰からどんなにバカにされても、利用されておっても、私についてござる神様までバカにしたりできんのだ。そうゆう信念を持った人がだんだん少なくなってきた。馬鹿になろうとしない。利用されようとしない。神様に使われようとしない。まだ飯塚の教会が町全体繁盛していた。商店が繁盛しているところは、金光様の信者ばかりだった。信心のない人が信心のある人と争うたら絶対に負ける。金光様の信者と争うなといわれる時代があった。ああ、あすこは駄目ばい。金光様の信心しござるけん。あそことけんかするならこっちが負けることはわかっとると、いわれる時代があった。
お役に立ちたい、お役に立ちたい、御用につこうてください。神様はその人の為に必ず氏子の用は神が足して下さるというおかげを下さる。たとえば久富繁雄さんが、一生懸命御用を頂いて下さる。只イヤといいきらん性分が一に繁雄さん、二に繁雄さんと、こう言ってから利用されている。お役に立ちたいの一念が無くて、利用されているだけなら、久富繁雄の用は、神が足してやるというようなおかげにはなってこないと思うけれども、内容がお役に立ちたい、お役に立ちたい、そうゆう一念がです、形は同じでしょう、どうゆう御用にでも使うて下さい。お役に立たせて頂いて、初めて神の御用は氏子が、氏子の用は神が足すというおかげになってくるだから。
神様から利用されたのじゃつまらん、神様から利用されるとはどうゆうことかと言うと、神様を利用しようとする人が利用される、神様をだましたと思っている、大坪総一郎を利用したと思っているが、けれども、あとでよくよく考えてみると、大坪総一郎その人に利用されておったことに気がつくわけなんです。そういうところの体験を積めば積むほどです、神様には、神、ね、私には勝てても、私についてござる神様には勝てんのだと。そこに、例えば利用されても、有り難いということになる。ね。こちらがバカにされておっても、有り難いということになる。
私についてござる、私を守ってくださっておる神様までだますことはできんのだ、というその信念、そういう思い込みのできるような信心をね、頂かしてもらわにゃいかんと思う。
(これで終わり)